っと集中できへん

2015年08月18日



 たくさんの厚紙のイメージは、焦点が合うように鮮明になった。マジックインキで、1から144までの数字が書かれている。かなり癖のある、母親の字だ。
 信一の前には、母親が苛立《いらだ》った表情で座っていた。手には、九九の式を書いた大判の画用紙を持っている。信一には、これまでの経験から母親のHIFU 瘦身顔色を読んで、すでに爆発寸前であることがよくわかっていた。心の中で、気をつけた方がいいぞと警告する声が聞こえる。だが、信一には、すでに椅子に座っていること自体が苦痛でしょうがなくなっていた。彼はもぞもぞと身動きし、頻繁に溜《た》め息をついた。
『八九は? 信一。八九は? さっき教えたでしょ?』
 信一は腹が減って混乱し、完全に嫌気が差していた。こんな事は、もう続けたくない。それでも、母親の指し示す紙に注意を払おうとはしていたのだが、つい疲労から、よそ見をしてしまった。とたんに、容赦なく母親の手が飛んできた。
『信一!』
 信一は、わっと泣き出した。すると、母親はますます激昂《げつこう》する。
『なんで泣くの? 全部、あんたのために、やってるんやないの!』
 母親は、画用紙をテーブルの上に叩《たた》きつけた。小さな子供にとっては、その激しい剣幕は、大人には想像がつかないくらいの恐怖だった。
『どうしてわからへんの? え? どうして、もの? え? 言いなさいよ。ママが、こんだけ一生懸命になってるのに、なんで、あんたは、いっつも、いっつも、そうなのよ!』
 髪の毛をつかまれて、ヒステリックな打擲《ちよreenex好唔好うちやく》を受けながら、信一は、また激しく泣いた。幼心に、すべて自分が悪いんだと思っていた。自分がダメだから、ママをこんなに怒らせてしまったのだ……。
 その後の記憶は、空白になっていた。だが、ひどい目に遭ったという感じだけは残っていた。
 信一は、話しながら、いつのまにか涙を流していた。
『憂鬱な薔薇』おばさんや『ファントム』君は、うなずいたり、相槌《あいづち》を打ったりして、信一への共感を示してくれた。『美登里ちゃん』は、黙って大きく目を見開いていた。まるで、彼の悲しみを、すっかり共有しているかのようだった。
 全員の質問に答えながら、信一は、さらに記憶を辿《たど》っていく。彼に対する革新的な『早期教育』は、母親の献身的な努力も実らず、結局は失敗に終わったらしい。幼稚園にいる間に、信一は、九九だけでなく、ひらがな、カタカナ、アルファベット、小学校四年生までに習う漢字、簡単な英単語、それに小倉百人一首などを暗記していたが、それでも、母親の遠大な計画と心づもりからすれば、てんでお話にならなかった。
 小学校に入学してからは、今までの『失敗』を一気に挽回《ばんかい》すべく、信一の一週間は、ぎっしりと塾やお稽古《けいこ》ごとで埋められた。
 月曜日は英会話。火曜日は進学塾と書道。水曜日は算数教室。木曜日はピアノ。金曜日旅遊景點は再び進学塾。土曜日はバイオリン。日曜日は、水泳と家庭教師による徹底指導……。そしてまた、新たな一週間が始まる。それは、決して終わることがない永遠のサイクルのように思われた。
 信一の日常は、『効率』によって支配されていた。ぼんやりと空想に耽《ふけ》っていたり、ぶらぶらと野原を歩いたり、川に向かって意味もなく石を投げたりといった無駄な時間は、周到に排除されていた。 

Posted by 比類がない at 18:14Comments(0)願景村